My Story

My Story

このページで、私の人生STORYをお話したいと想います。
私のことを少しでもお知りいただくきっかけとして、お読みいただけると嬉しいです。

生まれ〜幼稚園まで

私は、1984年に兵庫県神戸市で生まれました。

小児マヒで右足が不自由、厳格で人情深い、鹿児島県出身の父と、
ちょっと天然だけど頭が良くてしっかり者の、大分県出身の母。

両親にとって一人目の子供ということで、父は私が生まれた時
泣いて喜んだみたいです。

その後、2年後に妹、更に2年後に弟が生まれ、
計3人兄弟の長女として育ちました。

「明朗活発」という言葉がぴったりだった私。
カメラを向けられると、フザけた顔ばかりしていて、
おちゃらけた性格だったみたいです。

習い事として、ピアノや水泳をはじめ、
心からそれを楽しむ毎日。

けれど、妹や弟が大きくなるにつれ、

「お姉ちゃんなんだから、しっかりしなさい!」と
怒られることが増えてきて。

自由気ままに生きていた私でしたが、
妹や弟に何かあると、怒られるのは私。

そして、両親はいつも手がかかる
妹や弟につきっきり。

少しずつ、構ってもらえない寂しさを
募らせることになります。

小学生時代

小学校低学年で、人生はじめてのいじめを経験します。

両親に迷惑をかけてしまってはいけない、
私はしっかりしていないといけない、という想いから、

両親にその事実を伝えられませんでした。

今思えば些細なことですが、
ハンカチを奪われて、学校の池に捨てられたり。

友達とうまくやっていけない自分に自信がなくなり、
少しずつですがふさぎがちな性格になります。

そのエネルギーが勉強に向いたのか、
勉強はそこそこできて、通信簿も上々。

高学年まで、ちょっと友達ができては、
またイジメに遭い、塞ぎこむ…という繰り返し。

4年生の頃には、初恋で大好きな人ができますが、
この頃には自信がまったくない性格になっていたので、
結局告白できず仕舞いで終わってしまいます。

自信のなさは、外見にも。
勉強のしすぎで視力が落ちてしまった私は、
高学年からメガネをかけることに。

メガネにトレーナー、ボサボサの髪の毛、
当時の写真は今見返すと「これはイジメられるわ…苦笑」と
笑ってしまうくらいの外見でした。

中学生時代

そのまま、地元の中学に進学。

運動部に入ろうとした私ですが、入学式のお祝いで
吹奏楽部が演奏しているのを聞き、そのカッコよさに感動。

幼稚園からピアノを習っていたこともあり、
吹奏楽部に入ることを決断します。

フルートをやりたかったのですが、
定員オーバーでなんとコントラバスという楽器をやることに。

「こんな楽器をやるために、吹奏楽部に入ったんじゃないのに…」と
愕然としながらも、低音楽器の魅力にハマっていきます。

一方、外見は相変わらず冴えない街道まっしぐら。笑

そんな感じだったので、クラスではまたしてもイジメに遭います。
中学生のイジメなので、だんだんと程度はひどくなり…。
一時期は、しょっちゅう体育館裏に呼び出され、暴力を受けたり、教科書を破られたり。

悔しいけれど、何も抵抗できなかった私は、
勉強と部活に没頭することで、その悔しさを紛らわせました。

3年生になり、私は吹奏楽部の部長になります。
夏のコンクールで、校内初の関西大会出場を狙って
一生懸命チーム作りに励みました。

けれど、難解な曲にチャレンジした結果、
チームをまとめきることができず、
あえなく地区予選で敗退。
この時の体験が、一番人生で悔しかったです。

進学シーズン。

私は、今の現状を変えたい、
絶対私をいじめる人たちと同じ学校には進学したくないという気持ちが強くなり、
県内有数の進学校を希望することに。

塾にも通い、毎日勉強に明け暮れ、必死に勉強しました。
後にも先にも、人生で一番勉強を頑張ったと言い切れます。

努力した甲斐があり、希望の進学校に合格。

高校生

小学生以来、はじめて地元の学区を出て、新しいスタートを切った私。
まさに、高校デビュー!といった形で、友達もたくさんでき、はじめて
彼氏もできたりで、バラ色の毎日でした。

中学時代の思い出から、吹奏楽はもうやらない…と思っていたものの、
結局やりたい部活が見つからず、そのまま吹奏楽部へ。

高校2年生のとき、学生指揮者になります。
中学生の頃から、なんだかんだ、リーダーになる
宿命だったのかもしれません。苦笑

高校3年生の春。学生指揮者だった私は、
夏のコンクールで指揮を振ることに。

私が任されたのは、いわゆるB軍チーム。

初心者や、経験者の中でもレベルが低く
残念ながらA軍の50名枠に漏れたメンバーです。

「どうせ、私たちはBチームだから。」

と、最初は諦めモードだったメンバー。

私は、絶対にこのチームを勝たせたい。
そう、強く思っていました。
だって、中学生の時の、あの悔しい想いがあるから。

絶対、同じ失敗は繰り返したくない。

そこで、私が取った行動は2つです。

1つは、「チームの繋がりを大切にすること」。
合奏指導をするとき、どうしても私が前に立ち、
指揮台の上から「指示」をする形になります。
一方的な関係にならないようにするために、
合奏中もニックネームで呼んだり。
学校で会ったら声を掛け合ったり。
部活後に、一緒に居残り練習をしたり。
一人ひとりと、真剣に向き合いました。

2つ目は、「自分自身が誰よりも努力すること」。
私は、Aチームでは演奏者として出演することになっており、
Bチームと2足のわらじを履いていました。
Aチームの全体練習に出て、
その後、Bチームのパート練習を回り、
Bチームの全体練習を仕切って、
部活が終わった後に自分の楽器練習をしていました。

初心者の人も多かったのですが、
私は吹奏楽で使われるすべての楽器の
教則本を読み漁り、運指を覚えて、
初心者の子の練習にも根気よく付き合いました。

結果的に、Bチームのメンバーの繋がりは日に日に強くなり、
毎日、顔を合わせるのが楽しみになっていきます。

そして、何より、繋がったメンバーと一緒に
音楽を作り上げることの喜びを感じられるようになりました。

結果、地区予選ではグランプリを獲得することができました。

結果発表の際、私は代表で表彰式に出席し、
舞台上から、会場の座席に座っている仲間を見ていました。

その仲間が、グランプリを取った瞬間に
「きゃー!!!やったーーー!!」と
抱き合い、歓喜の声を上げているのを見て、
私は嬉し涙を舞台上で流しました。

その時の光景は、今でも鮮明に覚えています。
そして、この時の喜びを思い出すと、
こうして文章を書きながらも涙が溢れてきます。

高校生ともなると、グランプリを取るような学校は
高いお金を払い、プロの先生を招いて練習をするレベルです。

私たちは、チームの繋がりを糧に、
自分たちだけで、グランプリを手にしました。

高校生時代は、こんな感じで、部活動に没頭。

受験シーズン。

進学校である私の学校では、
ほとんどの人が大学進学を希望します。

私の両親は、父が中卒、母が高卒。
父は、足の障害を抱えながら印刷工場で働き、
母は近くのJAでパート勤務。

そんな両親なので、私も、大学に進学することを考えながらも
「地元の国公立大学」くらいしか選択肢がないな、と思っていました。

そこで、衝撃の出来事が。

小学校から唯一高校まで同じ学校に進学していた
幼なじみのEちゃんが、東京の私立大学へ推薦で行くことが決まったのです。

地元しか考えていなかった私には、青天の霹靂。

その子は、私よりも勉強もできて運動もできるし、美人だし、
お家は地主さんで屋敷みたいなお家に住んでました。

だから、私とは次元が違う。私には、その選択肢はない。
けど、正直、羨ましい。東京なんて、カッコいいな…。

そう思って、「Eちゃん、凄いなぁ!」と言ったところ。

「えー、一緒に東京行こうよ!成実ちゃんも行けるよ、きっと!」

って言われて。私の脳内は、一気に東京行きしか考えなくなりました。

そこから、親には相談せず、指定校推薦枠に応募。
1校目は落ちましたが、2校目で法政大学に合格しました。

で、親にカミングアウトするわけですが…
もちろん猛反対。

「東京の私立大学なんて、とんでもない!」と
父親は断固として反対。

私も、「行くって決めたんだから!」と譲らない。

じっと見守っている母。

結局、何度にも渡る家族会議の結果、父親から
「もういい。好きにしろ。」と言ってもらい、
私の東京行きが決まります。

ちなみに、私の高校時代は、古着が大流行しており、
お小遣いを貯めては古着を買い漁る毎日。

神戸でももちろん古着は買えるんですが、
ときどき梅田まで出かけてとにかく服を買いまくってました。

ファッション雑誌やインテリア雑誌も読みまくって、
「東京に行ったら、こんな部屋にしたいなぁ。」
「たくさんオシャレなスポットに出かけて、服買いたいな〜。」
と、夢を膨らませていました。

上京、大学生

高校を卒業後、地元でちゃっかり運転免許だけ取って、
いよいよ上京。

引っ越しは、車に荷物を積み、両親と共に
東京に来て作業しました。

あっという間に作業終了、両親が神戸に戻った後です。

一人、ベッドに横たわって、

「あぁ、私は今日から一人で生きていくんだな。」と
ずいぶん壮大なことを考えていました。

だって、料理も掃除も洗濯も、自分でやらないと
生活していけない。それって、凄いことじゃない?

そう思うと、急に何をしたらいいのかわからなくなって、
結局その日は一日ベッドから動けませんでした。笑

このままじゃ暇で死んじゃう…。
孤独に耐え切れなくなった私は、近所をお散歩。
その途中で見つけた、ガストの「アルバイト募集」の看板に飛びつき、
すぐに連絡して、バイトを始めることになります。

そして、大学生活スタート。

地元から本当に一人で出てきた私、
人間関係もゼロからのスタートです。

父に「好きにやれ!」と言われ、
本当に東京に来てしまったのですが、
「うちには仕送りするお金はない」とのことで、
結局奨学金を毎月10万円借りることに。
(大学卒業後、500万円近い借金を背負うことになります。笑)

けれど、アルバイトをやってお金も入ってくるし、
人間関係は自由に作れるし、
長期休みはあるし、
本当に大学時代は人生で一番楽しかったです。
この頃にだったら、戻ってもいいくらい。笑

大学時代は、いろんなことにチャレンジしました。

サッカーサークルのマネージャーをやったり、
(そこで彼氏もできて、超充実してました。)
アマチュアの吹奏楽団に入ったり、
アルバイトに明け暮れたり。

生まれてはじめて海外旅行にも行きます。

なんとはじめての海外は中国。
いろいろと衝撃でした。

そこから海外旅行にハマった私は、
フィジーへ短期留学に行ったり
中国に短期留学に行ったり。

そして、大学のゼミではゼミ長に。
生命政治論という面白いゼミに入っていました。
中絶、臓器移植、薬害…など、生命に関わる倫理的問題と
政治を結びつけ、考察していくゼミでした。

こんな感じで、とにかく、興味があることは
何でもチャレンジしました。

就職活動の際には、当時リクルートの人が主宰していた
「オトナ会議」(通称トナカイ)に参加。
自分を徹底的に見つめる機会を得て、自分を表現することを
徹底的に練習させてもらいました。

そのおかげもあって、内定をいくつかもらうことができました。

当時、ゼミの関係で薬害の勉強をしていたこともあり、
MRという製薬会社の営業になりたい気持ちが強く、
第一候補にしていました。

それ以外にも、興味がありそうな分野にエントリーして、
最終的に絞り込んだのはMR1社と銀行。

MRにほぼ気持ちが傾いていたのですが、
たまたまOGのMRの方とご飯をする機会があり、

そこでMRの仕事の凄まじさに私はたじろいでしまいます。

決意が揺らいでいる時、両親へ電話したら、
「銀行のほうが安定しているしいいんじゃない?
銀行に内定もらうなんて、すごいね!」

と言われ、結局、私は銀行を選択することにしました。

父の会社倒産

けれど、その頃、実家から連絡が。

父が長年勤めていた印刷工場が倒産したとのこと。

申し訳ないが4年生の学費も払えない、とのことで、
私は大学に申請して追加で学費分の借入をすることになります。

両親は、神戸の家を売却し、母の実家である大分へ移住することに。

なんとか卒業できて、ホッとしました。。

就職

そして、私は都内の銀行に就職。

当時、入行した銀行は外資で、社長も外人。
なんだかすごいところに入社したな…と思ったのを、
今でも覚えています。

私の配属は支店勤務の個人営業。

要は、運用商品を個人のお客さまに提案する
資産運用コンサルタントです。

数字がめっぽう苦手だった私は、
電卓も「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん…」と言いながら
叩くレベルでしたし、

運用商品なんてひとつも知りませんでした。

けれど、配属されたら、即、自分の専用ブースが与えられ、
お客さまを持ち、月のノルマを持つ状況だったので、
私は必死に商品勉強をし、ロープレを毎日重ねて
練習を積みました。

仕事は大変だったけれど、せっかく銀行に入れたし、
上司や先輩に評価されたい一心で、必死に食らいついていました。

彼との別れ

仕事を始めて2年目。
仕事の様子もだいぶつかめてきて、
私は大学生からお付き合いしていた彼と
「そろそろ結婚したいなぁ…」なんて思っていました。

けれど、彼は仕事に没頭したいと言って、
結婚するどころか私との時間もおろそかになってきます。

そして、そんな微妙な価値観のズレがついに崩壊し、
私は突然彼から別れを告げられることになります。

付き合って5年も経っていて、

いて当たり前だった存在。

その人を失ってしまい、私は予想以上にダメージを受けます。

いつまでもその人を引きずり、大学時代に仲良くしていた
共通の友人とも顔を合わせづらくなってしまうほど。

そこから、寂しい気持ちを紛らわせるように、
私は仕事に没頭していきます。

吹奏楽団のリーダー

その頃、趣味で大学生から通っていた吹奏楽団にも、変化が。

私が高校生の頃、学生指揮者をしていた経験から、
私がその楽団のコンサートミストレスになることになったのです。

コンサートミストレスとは、音楽面のリーダー。

私の楽団は、毎週末、土日どちらかで練習があったのですが、
その時の練習を仕切り、合奏指導をしたり、
楽団の音楽面を向上させるためにいろんなことをするようになります。

また、それとは別に、本番の際の
司会原稿作成・セッティング表作成・タイムテーブル作成…などなど、
やることが盛りだくさん。

それでも、

「彼もいないし、こういうところでも自分の力を発揮できれば
それもそれで役に立ってるしいいかな。」と想い、頑張ってきました。

ただ…段々と仕事も忙しくなり、平日に自分の時間が取れなくなり、
楽団のためにいろいろと考える時間が取れなくなってきます。

楽団の仕事がおろそかになり始めた頃から、
楽団の一部のメンバーから批判を浴び続けるようになります。

私は、音楽が好きで楽団に入ったのに、
結果的には、与えられた仕事をこなせないプレッシャーや
無償でできる範囲で頑張っているのに私を責めてくる心ない人たちのせいで、
週末を迎えるのが苦になってきます。

両親との同居

2011年、私の生活環境にも変化が。

私が上京してから2年後に、妹が上京し、
そこからずっと二人暮らしをしていました。

両親はというと、大分へ移住したものの、
母の両親との同居がうまくいかず、ストレスから
両親とも体調を崩しがちになってしまいます。

ちょうど3月11日に東日本大震災が起きたこともあり、
私も妹も家族が離れて暮らすことの寂しさを感じており、
また両親のこともとても気がかりでした。

そこで、両親を東京に呼び寄せ、
家族4人で東京で生活をすることになります。
(弟は神戸に残したまま、一人独立してます。笑)

父は障害者で働けず、母も体調を崩していたので、
二人の収入は父の障害年金だけ。

私は、両親を自分の扶養に入れ、引越し代も
新しい家具も全部私が負担し買い揃えました。

そして、家賃負担もほぼ私。

こうして、両親と妹との4人生活が始まりました。

人生の転換期

両親と一緒に暮らし始めて2年が経った2014年頃。

私はというと、仕事は頑張れば頑張るほど評価は上がりますが
仕事量も増え、キリがない状態が続いていました。
有給はあるけれどほとんど使ったことがなく、
毎日毎日残業続き。

また、吹奏楽団の状況は変わらず辛い。
心ない人たちの批判に怯え、傷つきながらも、
私がやっていた役職を引き継いでくれる人が誰もいない。
私の味方になってくれる人たちと、お酒を飲んで
愚痴を言って発散させるくらいしか、やりようがありませんでした。

そして、気付いたらあっという間に30歳手前。

仕事は一生懸命やってるけれど、このままずっとこの仕事を続けるのか?
正直、それは微妙。
けれど、転職するって言っても、今のお給料が下がるのもちょっと嫌。

周りは結婚したり出産したり、変化があるように見えるけれど、
自分はなんでこんなに必死に頑張ってるのに幸せを感じられないんだろう?

本当はもっともっと幸せになりたいし、
自分の価値を活かしてイキイキ仕事がしたい。
もっと自由に生きていきたい。
周りの目を気にして怯える生活から抜け出したい。

そんな想いを抱くようになります。

そして、私はそこから、自己啓発の本にハマり、
本だけにとどまらず、セミナーや講座を受けるようになります。

たった3ヶ月で人生が激変。

はじめての講座は2014年8月。
自分をブランディングする講座だったのですが、

いざ参加してみると自分の強みや世に打ち出せることが
何にもなくて、愕然とします。

会社では結構評価されてたのに、会社の外では
私って何にもないのかな。。。

そこで言われたのは、とにかく「情報発信」すること。
Facebookで、毎日取り組んだことと、
それをしてどう思ったのか、なぜそう思ったのかを書くように
言われました。

また、そこで出会った人たちは、会社や家、吹奏楽団の人たちとは
全然違う人たち。

人間としても素晴らしいし、自分のブランディングをきちんとできていて
すでに会社経営者だったり、売れるものを持っていたり。

私もこんな人たちに近づきたい!

そういう想いで、そこからは毎日Facebook投稿を始め、
同時に多くのセミナーや講座に顔を出すようになります。

結果、3ヶ月ほどで、私の人生は激変。

多くの学びの仲間と繋がり、
自分らしさを作り上げ、
こんな世界があったんだ、と
嬉しい気持ちで毎日を過ごすようになります。

そして、学びの場で出会った人とお付き合いもすることに。

手放す

私は、学びの場のおかげで、自分で発信をすることが楽しくなり、
その発信をまとめた電子書籍を出版。

そして、発信の媒体をブログへも移し、世に少しずつですが
出て行くようになります。

自分の意志を大切にするようになり、
これまで取らなかった有給もどんどん取得して
学びの場に出かけていきました。

そんな中、お付き合いした彼が上京することに。
私は、新築マンションを購入し、同棲することを決意。
(いずれ会社を辞めるような気がしていたので、
会社員のうちに、ローンを組んでおきたかったのです。)

両親と妹との同居生活を手放すことにしました。

そして、彼と同棲し始めてすぐ、
吹奏楽団へも行かなくなり、結果
強引ではありますが、辞めました。

この頃、私は支店長代理に昇格。

仕事は一生懸命頑張るぞ…と思っていたのですが、
代理職になり、チームを任されるようになると、
自分と違うモチベーションの人たちをどう巻き込むかで
かなり悩む毎日になりました。

それまでは、自分だけでも目の前の仕事をやっていれば
しっかり仕事が回っていたのですが、
そうはいかなくなったのです。

毎日毎日、自分とやる気が違う行員をどう教育するか、
どうやったら会社に対して前向きになってくれるか、
どうやったらチームとして良いパフォーマンスが出せるか、

そんなことで頭がいっぱいでした。
毎日支店長と深夜近くまで、どうやったらいいか話し合い、
チームメンバーができなかった時は私がその分の仕事もこなし、

気付いたら私の心とカラダが悲鳴を上げていたのです。

最後の手放し

2015年、10月。

私は、朝、突然ひどいめまいで起き上がれなくなり、
そのまま倒れてしまいました。

結局、その日から3日間、会社に出社できず。

原因は不明でしたが、そこから頻繁にめまいがするようになります。

彼が心配して、専門の病院を探してくれ、診てもらったところ…
「メニエール病」と診断されます。

結局、支店長が気遣ってくださり、しばらく休職をすることに。

私は、これまで頑張ってきたキャリアをここで止めてしまう不安もありましたが、
正直なところ、休職できることになって、ホッとしました。

その頃、私が展開していた個人活動はブログを中心に、
セミナー主催の話も進んでいました。

休職したことにより、そちらはどうしようかと迷ったのですが、
ずっと家にこもりっきりなのも気が狂いそうだったし、
お医者様も外に出られそうであれば出られる日は少し出たほうがいいということだったし、
リハビリも兼ねて細々と続けることに。

もちろん、会社に迷惑がかからないように
また副業規定に違反しないように、
セミナーなどの収益はほぼなかったですが
ある場合は彼に収益をつけていました。

休職中はリハビリの入院もしたし、
めまいは朝や夜に頻繁に起きる状況は変わらなくて
辛い日々でしたが、動ける時には少しでも動く。

いつか復帰できれば…と想いながら生活していました。

会社を辞め、結婚するまでのドラマ。

そんな中、2016年3月。
会社から、状況のヒアリング面談で呼び出されます。

はじめは体調などのヒアリングだったのですが、
突然人事部長から、「こういった活動をしているのは、事実ですか?」と
セミナーのセールスレターのWEBページをコピーしたものを突きつけられます。

私は、「はい、そうです。」と素直に答えました。

そして、収益は一切もらっていないし、リハビリのためにやっていたことであると
何度も何度も訴えました。

会社の判断は、服務規程違反。

会社の懲罰委員会にかけると言われました。

もしそれが嫌なら、今後のことは自分で判断してもらいたい…。と。

要は、辞めろ、ってことです。

私は、副業は禁止であることは知っていたし、
だからこそ会社に迷惑がかからない形を取って
収益も一切もらわないようにしていたし、
リハビリも兼ねてやっていたのです。

もちろん、休職中ということもあり、会社から
お給料をもらっている身なので、私も甘いところはあったかもしれない。

けれど、会社とはいえ、私の意志をそこまで
否定する権利はあるのか?
そもそも、副業禁止なんて、じゃあ私が死ぬまで
責任取ってくれるのか??

しかも、これまで9年間、ずっと会社に忠実に勤めてきたのに、
そのことには何も触れず、まるで犯罪者のような扱い。

私は悔しくて涙が出ました。

そして、会社を辞めることを決めました。

会社を出て、その日、彼にその旨を伝えたところ、
「そっか。じゃあ、二人でこれから頑張っていこう。」
「俺も頑張るから。」
って一言。

そのまま、彼からプロポーズされ、4月にあっという間に入籍。

4月末には会社を退職して、今に至ります。

最後に

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

結局、書いていたら止まらなくなり、1万字にも渡る
大ストーリーとなってしまいました。笑

こんな感じで、波乱万丈ながら、自分の足で人生を決め、
今に至っています。

私のことを少しでもお知りいただけたら嬉しいです。